「グローバル化」の解釈

2015-03-31
先日、ある総合商社OBの方と話をする機会があった。
世界を飛び回り、ビジネスをされてこられた方の言う事は面白く、話す内容が豊かである。

話の途中に、「英語は出来ますか?」という質問を頂き、私は「いいえ」と答えた、
さらに突っ込まれて「何で出来ないのですか?」と聞かれ、私は「苦手な上に勉強していないので」と少し笑いながら回答した。
すると今度は「日本人は何で英語が出来ないのか?」と意見を求められた。
それに対して、「日本語を勉強しているからではないですか?」と質問で返した。
少し興味を持って頂いたようで、話が盛り上がった。
私自身の考えは、日本人の英語習得人口率が他国より低いのは「日本が優秀だから」と考えている。
植民地化もされず、他国の文化の真似をすることもなく、日本独自のカラーを発色し、在り続けてきた。
日本人は英語よりも何よりも守るべき「日本語と日本文化」があるからこそ、英語を後回しにしてきたと考えている。

昨今のグローバルというものに関して、少し違和感を覚えているのは自分だけではないであろう。
最近では、グローバル化に影響され、英語のレベルを日本全体で高めようという機運も高まっており、
小学校(幼稚園からも)から英語授業が平準化されるほどになっている。

以前から思っている事なのだが、グローバル化=英語力という認識は、誰がどう解釈したものなのか。
グローバルレベルで仕事をする上では必要不可欠なツールなのかもしれないが、このツールを使えることだけで、
グローバルレベルに通用する人物になり得るのであろうか。
残念ながらそうは思わない。
ツールが使えるのはあくまで前提であり、日本語だけのところを日本語と英語に置き換わっただけである。

では何をもってグローバルといえるのか。
自分なりの見解と受け売りで申し上げるのであれば、洞察力・俯瞰力が挙げられる。
語学もしかりだが、語学の背景にある文化を知らない方が非常に多い。
文化を知らずに浮ついた語学だけを使っているのであれば、それは本当の意味での語学をマスターしていないと感じる。
留学する方も多い昨今、留学経験者や留学希望者に「目的はなに?」と聞いてみたところ、
やはり回答は曖昧であり、挙句の果てには「英語を勉強」という回答が最も多い。
前述の通り、時代背景や文化を知らずして表層的な語学だけを学ぶのであれば、日本にいながらでも十分勉強できるレベルである。
残念ながら、その様な意識でいった留学は時間とお金の無駄である。旅行の延長でしかない。
そういうと「海外で自分も苦労した」という反論が聞こえてきそうだが、それはそうだろう。
日本語が通じない非日常に身を置くことを「英語を習得する」という極めて弱い動機で行っているのであれば、
苦労も一際大きいだろう。

論点を翻すと、この国の教育カリキュラムは優秀である。
ただ、残念ながら、親や大人が教育の意図を理解しておらず、表面的に勉強を強いる環境にある。
これでは勉強をする意味すらわからず、学習意欲が低減するだけである。

英語も然りである。
授業に英語を取り込むのは決して反対ではない。
では、英語を勉強する理由は?英語はいつ使うのか?何でいまやるのか?
答えは、世界がグローバルスタンダードになってきているから、英語が世界の共通言語だから。
この程度の動機づけでは、やはり真のグローバル化には程遠い。

先を見通す事も大事であり、グローバルという目線は全く反対ではない。
ただ、意識が先々へ行き過ぎていて、足元を固めていない組織や風土が多いように感じる。

私自身も、しっかりと足固めを行い、先のステップを踏んでいきたい。
そのためにも、しっかりと礎を築き、着実な変化を自身の課題にすることをルール化としていきます。
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子供から学ぶこと

2015-03-26
最近、我が子の成長に伴い考えを巡らせることや思いがけない気付きを得ることが増えているように思われます。
多くの大人は自分の知らない物事や世界に対し、少なからず不安感を持つことが多くなるのではないでしょうか。
それは知ること、学ぶことが増える程、知らないこと、未経験の領域に対しての不安を感じる傾向にあるからなのかもしれません。
未知の領域に対し、自分がイメージする世界観は、実際に起こりうる現実と一致していないケースがあり、そのイメージが、自分が積み上げてきた経験とリンクする世界観を崩してしまうことを恐れているからではないでしょうか。
反対に子供は知らないこと、経験していないことが数多くあることもあり、大人が持つ失敗のイメージ、
社会人の場合は会社からの評価、自分が仕事として取り組んできたことの成果等とは無関係であることからも、
結果や成果はさほど重要ではなく、純粋にプロセスを楽しんでいるように感じられる。

我が家でも娘が、至るところに動物シールを貼ってみたり、ぬいぐるみに自身の洋服を着せてみたり、
手を伸ばしてギリギリ届くかどうかのものを無理に取ろうとしてみたり、
ソファーから飛び降りようとしてみたり中には大人が見るとヒヤヒヤするようなことを何処吹く風で楽しんでいるように見える。
取り組んでいる行為の結果がどうなるかなんて、考えるよりも、その過程や行為を純粋に楽しんでいる風である。
プロセスを楽しんでいる娘の父はといえば、4月から始まる新しい期に向けてチャレンジしてみようと考えていることがいくつかある。
今日まで「やっても成果につながらないのではないか?」「果たして自分に出来るのか?」と
日々の業務に追われていることを理由に先延ばしにしてきた自分なりのミッションである。
幸いにも弊社の代表は成果ではなく、むしろプロセスにこだわりを持つ経営者だ。
先ずは成果にこだわらず、チャレンジしてみよう。そして少なくともプロセスを楽しんで
みようと思う。

いずれ、社会人になり、結果や成果をを気にするようになる娘に言ってやろう。「プロセスを楽しみなさい」と・・・

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選挙権と少年法

2015-03-05
先日、公職選挙法改正案によって選挙権を18歳以上に引き下げる法案が成立する見込みであるとニュースになっていました。
改正案では、飲食・喫煙などは20歳以上とする民法と、少年法の年齢にかい離がある為、合わせて議論すべきであると指摘されていました。
おりしも、その翌週に川崎市の中学生が17歳・18歳の少年たちに殺されるという残虐な事件が起こり、少年法の適用年齢の引き下げについてあちこちで議論が飛び交っています。

そもそも少年法の目的は「少年の健全な育成を期す」「非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行う」となっており、もともとは刑罰を科すことではなく、少年の更生なのです。

人間味のある法律だと思いますが、先に述べた川崎の少年刺殺事件や昨今の名大生事件等現代の残虐な事件を見たときに、果たして、この少年法が理想とする効果があるものなのだろうかと
疑問を持たずにはいられません。
一方、少年法に守られ本当に立ち直り、その後の人生を真っ当に歩んでいる若者も
多くいるに違いないと思うと、非常に難しい問題であると思います。

しかし、あくまで個人的な考えではありますが、取り戻すことが出来ない大切な命を奪うことは、
年齢に関係なく、罰せられるべきだと思います。そこに情状酌量の余地があるかどうかが議論になるべきで、
未成年だからということで守られることが前提なのはいかがなものかと思います。

「挨拶はしっかりすること」「自分が嫌なことは他人にしてはいけない」等は親から教えられて、
というか学校という集団生活の中で教わり、殺人はいけないことだと言うことも、
当たり前のように普通の人は善悪の分別が付きます。
しかし、普段の生活の中で、意外に「正しいこと」を見失ってしまっていることがあるのではないでしょうか。
例えば、朝の満員電車で目の前に妊婦さんが立っていた時、席を譲るべき瞬間ですが、つい寝たふりをしてしまったり、
社内で、後輩が間違った態度で顧客や上司に接していることに気づいても
「自分には関係がないから」とスルーしたり、etc…
損得勘定が「正しい」ということの「ものさし」になっていることが
少なくないように感じてなりません。

1つ1つは小さなことですが、一人ひとりのこの意識が、自分と他人の間に隔たりをつくり、
歪んだ人間関係を生み、そんな大人の世界を“リアル”と捉えて生きる子供たちがいる。
子どもは時代を映す鏡とよく言ったもので、見直すべきは少年法という法律よりも、
人としてのルールについてなのかもしれません。
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