刃を研ぐ

2013-01-28
先日、遅ればせながら初詣に行ってきた。
正確に言うと、メンバーの中で厄年の者がいたので、
厄払いと、会社の新年の御祈祷を兼ねて行ってきた。

昨年2月のブログ「パラレルキャリア」で、
弊社ご登録者主催の勉強会を紹介しているが、この一環に近いというか、
もともと、ご登録者の方が「神社とその周辺の自然を愛する会」(無論同好会である)を個人的に展開なさっており、
弊社メンバーが便乗させてもらったという格好だ。

今回行き先は、箱根神社。
なんでそちらに、と思われるかもしれないが、これには理由がある。
神社の評判がすこぶる良いのと、主催者が、学生時代に東海道を自転車で横断された際、
夜で参拝時間が終わっていて、参詣できなかった無念を果たされたいとの思いである。

主催者も、日本中の名神社を巡っておられる中、遠くもなく、近くもない距離感である
この神社に訪問することがなかったとのことだ。

道中、自家用車の中で、主催者がお参りの心がけを教えてくれた。
お願いをするのではなく、お礼を申し上げに行くのだそうだ。
非常に良いことをおっしゃると感じ入り、心が洗われる思いがした。

マザー・テレサの言葉で「祈りは願い事ではありません」というのがある。
私のような者にはなんとも耳の痛い言葉だが、本質をついていると思う。

神社仏閣に行くとついお願いしたくなってしまうものだが、
我々は普段生きている中で、見える形でも見えない形でも、
いろいろな存在に支えられており、こういった機会にお礼を申し上げるというのである。

なお、お参りも「段取り八分」だそうで、昇殿後は、無心がよいとのこと。
これも実行してみた。

一月の下旬にもかかわらず、お社の中は大変な数の人がいた。
無論お祓いに科学的根拠はないものの、
人がこういったものを必要とする存在だということが改めて感じられた。

箱根神社は、芦の湖畔の急坂の上に位置している。
参拝後、坂に生え盛る杉の木々を仰ぎ見ながら、湖の冷気を感じ、
日常の煩わしさを離れて、リフレッシュする思いだった。

その後、湖畔のそば屋で、名物のワカサギ揚げに舌鼓を打ちながら、
話に花が咲いた。

そういえば、最近逝去されたフランクリン・コヴィー博士の代表的著書で、
成功哲学のベストセラー『7つの習慣』を読んだとき、
第七の習慣が「刃を研ぐ」だったことをふと思い出した。

自分をメンテナンスするために、趣味を楽しんだり、
旅行に行ったり、運動したり、読書したり、というものである。

今回の小旅行のように、リフレッシュすることも、
良い意味でのルーチンにすれば、普段の仕事にも一層精が出るに違いない。
そんなことを思いながら帰途についた。
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研修はなぜ楽しいか

2013-01-21
最近、奇跡の書道家と言われる人の話が、心に残った。

ダウン症をもって生まれた方が、母親に教わって書道を長年続け、個展を開くまでになった。
来場者が次々に思わず涙を流してしまうほど、力のある書で、
私も、本を通してだが、作品を拝見し、息を飲む思いだった。

ご両親の子育ての様子が、本の中で語られており、親御様の溢れる愛が、
お子様である書家の力を育み、開花させたのではないか、などと思いながら、本を読み終えた。

非常に良きものを与えられると、ある意味、その後の人生が決まるような面もあると思う。
私の場合はその典型で、生徒のために文字通り命をかける先生方に学生時代に恵まれたため、
進路の選択や価値観の形成を含めて、恩師たちによって現在の人生が形作られたような感がある。

今後の人生についても、同様に、決定付けられている感がある。
それは、「次の世代に返していかないといけない」ということだ。

信じられないほど無償で与え続けてくださった先生方の思いは、
場所や学校は違えど、一貫していた。
自分に返してもらうことを全く望んでおらず、「次の世代に返してほしい」ということだった。

仕事においてお返しすることでいうと、今まで、お客様や、職場の先輩方や、
学生時代の先生方に大変お世話になってきたので、まだ見ぬ後進に返していきたいと思っている。

ただ、まずは自分のマネジメントを十分にできなければ話にならないので、
今は仕事を人に教える日は、はるかに遠いのだが、
近い将来で、お教えすることで言うと、英語研修にまた携わらせていただきたいと思っている。

弊社は、おかげさまで、キャリアコンサルティングのお申し込みが増えてきたので、
研修をお休みしていたが、
最近、通勤に向かう早朝の山手線の中で、以前手がけた研修の最終日を思い出した。

受講生の方たちは、信じられないほどやる気にあふれ、それだけでも主催者として
充実していたが、それを超えた楽しさを講師として感じたのは、なぜなのだろうと考えていた。

山手線が目的の駅に着こうとする頃、自分の中で一つの答えが出ていた。
それは、「差し上げるということが人間の本質の一つで、
摂理に沿うことをすると、人は力を得るようにできている」からではないか、ということだった。

差し上げるといっても、研修のお代だけでなく、やりがいなど、
こちらが受け取るものの方がはるかに多かったと思うが、満足していただこうと思い、
試行錯誤しながら必死で取り組んだ日々だった。

振り返ると、普段の自分では出ない力が出ていたような気がするし、
周りに聞いても、同じ意見だった。

私は、前述の先生方について、人間性の立派さなど、雲の上の存在として
仰ぎ見ていた感があるが、
先生方も、時には小さな悩みを抱える普通の人間でもあったことに変わりはないと思う。

では、なぜあのように高潔に生きることができたかというと、
「生徒に尽くすという本質に触れ、そこから、普通では得られないようなやりがいを感じ、
それを通じて大きい成長を遂げられたからではないか」というのが、現時点での私の考えで、
私も、先達と同じように、人に尽くすことを通じて、成長したい。

我が社が、創業まもない小さな所帯ながらも、なんとか仕事を営ませていただいているのは、
先程の摂理というには大げさだが、
「誠実さと質を最も大事にし、求職者様と企業様のお役に立つ」という本質だけは
見失わないよう、「ウサギと亀」の鈍臭い亀として、
一所懸命取り組みを継続してきた結果だと思っている。

いろいろかたい話が続いたが、自然な思いは、
「研修、いいなあ。キャリアの幅も広がるし、趣味としても楽しいですよ、英語できるようになると」。
その素直な思いを大事に、やっていきたい。

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完全な理解はできなくとも

2013-01-17
私はお酒が大好きだ。
ご多分に漏れず、特に仕事終わりの一杯が格別であり、結構な頻度で飲み会に参加してしまう。
概して、飲みのお誘いというのは突発的なものであり、妻への連絡が遅れがちになってしまう。
食事を用意してくれている妻からすると「配慮が足りない」ということで怒られ、
そこからしばしば犬も食わない状況へと発展してしまう。
全面的に私に非があるのだが、これは、相手を理解しようとする意識がおざなりになってしまっている結果だと思う。

人との出会いを起点とするビジネスに携わらせていただいている以上、
この「他者を理解する」という行為は最大のテーマであり、最も困難な命題であると常々思う。
1人として全く同じキャリア(人生)を歩まれてきた方は存在せず、語られる内容は常に新鮮であり、当方の予想を裏切られることが大半である。
だからこそ、お客様の核心に触れるためには事前の準備が不可欠であるし、面談の場に双方が作り出す心地よい緊張感が存在するのだと思う。
そもそも、完全に理解できるわけがないという前提があるため、イメージ通りにいかない事が当たり前だし、
それだからこそもっと知りたい、もっと聞きたいという気持ちが芽生える。
興味を持ってもらうとお互いがうれしくなり、さらにコミュニケーションが促進されるという好循環だ。
人の関心を引くための話法だとか間の取り方だとかはテクニカルな部分としては必要だが、
根底に「相手を理解したい」と強く思う姿勢がなければいつまでたっても核心には触れることができない。
テクニカルな領域や単なる情報提供に終始するのであれば、この仕事をする私やコアの存在意義も失うということだ。
これからさらにキャリア相談の経験を重ねても、絶対に緊張感のない面談はすまいと肝に銘じ、
また、日々私を支えてくれている妻への感謝の気持ちの不足ぶりを猛省した。

さっそく、妻の好物のたい焼きを買って、感謝の気持ちをまずは具体的に表すところから始めよう。
夫としての存在意義を失わないうちに。
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『卵』

2013-01-15
まさに厳寒というに相応しい寒さが続く今日この頃ではあるが、
暦の上ではあと2週間ほどもすれば立春。

立春には卵が立つなどといって都市伝説までいかないが大きくニュースなどになったことがその昔にあるらしいが、
果たして卵が本当に立つということをご存知のかたはどれほどいるのだろうか。

卵を立てるというエピソードで有名な「コロンブスの卵」の話があるが、
稀代の冒険家の発想力と行動力を引き合いに出すエピソードとして多くの場面で語られている。

しかし、大航海時代を体現するような偉人、新大陸を発見した功績は確実に世界史に大きな影響を与えた彼も
ある意味で先入観というのを持っていたようだ。

実は卵は球体ながら、表面上に無数の穴を持ち、根気さえあれば誰でも生卵だろうがゆで卵だろうが
立てることが出来る。自分はその事実に気づいてから面白くて練習を重ね、いまや20秒ほどあれば
大体の卵は立てることが出来るようになった。

話が脱線し過ぎてしまったが、常識というものの怖さであったり思い込みに囚われることが以下に
可能性を狭めてしまうかということを良く感じる。

ルールや常識、一般的な固定観念、世の中には色々なしがらみがある。
それを物ともせず、まったく独自の発想で乗り越えるコロンブスのような人はかなり稀だろうが、
事実を事実として捉えるという視点ををどこかのタイミングで捨てて見るということは、
とても大切なことではないのだろうか。
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