盲目

2012-06-27
昨年の原発事故で出た放射線に対する反応は人それぞれであった。
海外逃亡する人、とりあえず西に逃げた人、窓を閉めてマスクをした人、何もせず放射線を吸い込んだ人。
また、福島産の野菜を選んで買う人、なんとなく東北関東産の野菜を買わない人、九州から野菜を取り寄せる人・・。

さて、皆さんは何をもって自らの行動を決断しただろう?
ある若者が言った。「東大の有名な先生が放射線は大丈夫だってツイートしてたから大丈夫ですよ」。
だが後日、世間が放射線に対し懸念を示し出すと同時に、彼も食べ物に気をつかい始めた。
地震予知の件では、「ツイートで●月●日に地震が来るって噂になってるから心配です」とのこと。
彼は、判断の基準が、〈噂〉や〈有名な先生〉なのである。

・・はて???大多数がYesと言うから、学歴のある先生がYesというからYesなのである。
彼には自分の判断基準がない、と言っていい。
情報が多くなると同時に、自らの目で判断すべき事柄が増えてきている。
ネットであまたの情報が流れ、隣の人と同じ情報を共有しているということはもはやなくなった。
これまで、他の人と同じであればいい、和、が大事である、みんなで仲良くしよう。
そんな価値観が常識とされてきたが、隣人と価値観を共有できないことを受け入れざるを得なくなっている。
個人としての判断が求められる時代であるが故、
逆にあれほど「絆」というシンボリックなものが強調されたのかもしれない。

日本人一人ひとりが独立し、お互いの違う価値観を認め合い、それでいて「和」を保てる状態。
私は、これは民族として、初めての個人の独立の時代なのではないかと思う。没個ではない。
この中で、盲目な者、自己なく流されていくものは、やがて淘汰されていくだろう。
来るべき、変化の波に打ち克ち、波に乗っていくことはできない。今こそ、眼を見開き、耳をすませるときである。
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叫び

2012-06-27
先日、バスの運転手を刺した少年がいた。「同級生に馬鹿にされてくそっ、と思った」という理由だそうだ。
社会の中に埋もれている、学校や会社といったある一定集団の中にいる自分に歪んだ形で、
叫びを上げてしまったのではないだろうか?

他の人の目や考え方、流行に主眼を置いて行動している人がいかに多いことか。
百貨店に行けば、ほぼ同じデザインの中からアクセサリーを選び、
ある人気の色や流行の形の服の中から自分?の服を選ぶことになる。
その「流行」は、雑誌という「お手本」を見て勉強する。自分らしくあるために、
でも実は、自分でなくなるために。

中学までが義務教育でその先は自由であるはずである。
しかし、ほとんどの家庭が息子・娘を高校、そして良い大学へ入れることを考える。
偏差値という定規で測り、上を目指すというレールを引き、ひたすら、機関車を走らせる。
会社に入っても同じである。同期よりいくら早く昇進できるか、出世するか。
日本人は、そうしてレールに乗ることに、慣れている。果たして、心からそのレールに乗れている人はどれだけいるだろう。

繊細な人、正直な人はその不自然さに気付くのではないか。個の区別ない人間が、灰色の制服を身に纏い、
彷徨い歩いているような心地になるのではないか。生まれてきた意味は何なのだろうか?私は誰なのか?と。
叫びをあげた彼は、灰色の地の中から何らかの「色」として自己を認識してもらいたかったのではないか。
そんな気がする時もある。

「個」とは、鏡のない世界である。教科書もお手本も、レールもない。真っ暗闇だ。
そしてその先に、己にしかわからぬ、光の世界がある。矛盾という混沌の中から生ずる意図。
そこには自己を他者から区別する行為が存在する。その中で見えたものが、己である。
暗い中で、立ち止まらないでほしい。

必ず、その先にはあなたがいるから。
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結婚観

2012-06-15
日を追うごとに薄れていくのは、当初抱いていた結婚に対するイメージである。
入籍前と現在では、結婚に対する考え方が180度異なる。

元来、日本の婚姻制度は「お見合い」が一般的であり、恋愛の末の婚姻というのは稀な現象である。
このお見合いであるが、一体何を見合うのか。
一概には申し上げられないが、いわゆる「覚悟」や「人生観のすり合わせ」などであろう。
人生の一大イベントであり、赤の他人と一生涯伴にすることを約束する相手を選ぶというものであるから、
ただ単に好き嫌いでできるものでもなかろうというのが本来のお見合いの意味合いなんでしょう。

最近ではお見合いで結婚している人は少なく、恋愛の末に結婚ということが主流となっている。
結局好き嫌いで、人生の生殺与奪を決めてしまうことが一般的になってきたのです。
ということは元より結婚観というのは希薄になってしまっているのではないかと思います。

では一体何を見据えて結婚するのか、何を期待するのか、何を望むのか。
これらが結婚観と言えるのではないかと思う。これらの考えはむしろ結婚してから、
より深く考えるようになった。現実を見て、堅実な路線で考える。
だから結婚前に考えていた無謀とも言える空想論からかけ離れる。
理想だけ言っている人には現実は見えていない。
夢想家なのである。

実は、これは転職の選択肢と相通ずるところがあると思う。
転職先に理想を追い求めていても、何も得られない。
結婚相手に理想を追い求めていても、相手が見つからないのと同じである。

好き嫌いで物事を決めるのも結構だが、それだけで社会が回るのであれば苦労はいらない。
しっかりと現実を見て、取捨選択しないと転職市場でも結婚市場でも出合えない。

理想を追い求めていることはある一定レベルでは必要である。
結婚に限らず、自分よりも大切に想える対象があるということはとても素敵なことだと思う。
しかしながら、多くを望んでいたら何も解決しないというのが最近の世相ではないだろうか。
身の丈を知り、現実を捉え、それでいて希望を見つめる、というスタイルを忘れずにいきます。
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マネージメント力とは

2012-06-12
既に通説になっている「35歳以上はマネージメント経験を問われる」ということだが、
最近では、部下を率いるポジションでなくとも、35歳以上でなくとも、
30歳を過ぎた人には「マネージメント力」を見ている傾向にあるのをご存じだろうか。

例えば、「役員面接までは行くけれども、いつも最終面接で落ちてしまう。何でなんでしょうか?」という
相談を受けることが最近多い。
心当たりがある方は、面接でマネージメント力に欠けていると思われている可能性が高い。
部下がいて数値管理をしてきた、ということだけではマネージメント力をアピールするには力不足。

では、どのような点を表現することで、マネージメント力についてアピールできるか。
そして、どのような点を意識することで、部下がいなくてもマネージメント力を身につけることが出来るか。

私の考えではあるが、マネージメント力とは、「会社全体を見渡せる力・動かせる力」だと考えている。
直訳の通り、「経営する力」があるか。いかに「経営者(社長)の目線」を持っているか、ということ。
自分に与えられた役割を果たすだけではなく、よりよい会社にするために考え、自ら動くという意識を持ち、
実践してきたかどうか、なのだ。

色々なビジネス書を参考にしたり、私自身が上司から教わってきたことを参考にして、
私が考えるのは、大きく分けて、3つの力が必要だと思う。

1つは、ビジネスを運営する力。
(自社・他社問わず)このビジネスがどのようなからくりで利益を得ているのか、PL管理能力、
コストはどのくらいかかっているか、売り上げの現状と予測、必要な売上はどのくらいか、
そしてビジネスの課題は何か、会社全体を考えることが出来るか。
その上で、「自分に何ができるか」を問題の第一人称で考え、中長期的な事業計画を立て、実行する力。

2つ目に、リーダーシップ力、周りを動かす力。
より良い会社となるために、鳥の目で会社全体を見渡し、冷静に自分の部署(自分)では何ができるか、
出来ないことは何かを考える。他部署との連携を図る必要があるのであれば、厭わずにブリッジとなり、
周囲を巻き込んだ仕事ができるか。周囲を動かすための人間力も必要になるだろう。

3つ目に、人をマネージする力
部下のマネージメントにおいては、自身のデメリットではなく、
彼らの為に売り上げを上げることが出来る環境を作ってあげられているか。
仕事を含めた、その人の人生の成長を考えた叱咤激励をしてあげられているか。
育成において自分のポリシーがあり、自信を持って語ることが出来るか。

こう書いてみると、マネージメントだけに問われていることではないような気がする。
今、企業が求める人材とは、会社の課題に当事者意識を持ち、考えながら仕事が出来る人なのだ。
つまり、「ビジネスマンとしてプロフェッショナルな人」がどの会社も必要なのだ。

自分もプロフェッショナルになれるように、意識を高く、自分と会社のために仕事をしていたい。
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贅沢というのは

2012-06-07
弊社の隣駅に、立派な建物が出来ました。
所要があり、その近くに行く際外観を見てきました。

どうもバブリーな雰囲気を醸し出す建物です。
一つ疑問なのですが、この建物は誰かに必要とされた外装・内装なのでしょうか。

何が言いたいかというと、一言「無駄ではないかと」。
もっというと、この無駄の産物を生みだすために「無駄な労力」があるのではないか。
昨今の雇用状況から考えて、無駄であろうと何であろうと働き口が増えるのはいいことではないか、
そんなこと言ってたら就業人口の何割が無駄な労働になっているのだ。という声が聞こえてきそうです。

労働というのは、誰かに必要とされているから存在意義があるのではないか。
単に労働量を増やすための「無駄作業」に何の意味があるのか。
この建物、はっきり言うと「建設サイドの自己満足」でしかないのではないか。

ただ、このような建物を生みだすところを見ると、日本経済はバブル時代に戻るべきと
考えている人がまだまだ沢山いるような気がしてならない。
あの頃はよかった、楽しかった、という言葉をよく聞きます。
そりゃそうでしょ、一時期のお祭り騒ぎですからね。
お祭りは、いずれ終わります。むしろ終わった後の夢の跡が非常に痛かった印象です。

贅沢の極みは、ただの無駄ではないかと感じてしまいます。
物事には何でも「程度」があるのではないかとも感じます。
たくさんのジカンやモノやオカネがあれば、贅沢ですか?
一種の虚構でしかないと考えてしまいます、この建物同様、太陽の塔のようなもの。
でも現実は違います。
安定や安寧を求めている人が多い中、最高の贅沢は「分相応の安定を得ること」ではないでしょうか。
オカネやモノが潤沢すぎるほどあることを贅沢というのは、既に考え方がバブルでしょう。
あるに越したことはない、が分不相応な量はやはり無駄です。
本当の贅沢というのは、身近にあるものであり、贅を極めることは無粋でしかない。
今ある周囲を見渡して、今ここにいることを幸せだと思う事が国民総幸福に繋がると強く感じます。
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今、求められているモノ

2012-06-05
そろそろロンドン五輪です、2か月ほどで開催されます。
前回の五輪前と今回の五輪前で、少し違和感を覚えているのは何だろうと考えていました。

2か月ぐらい前となると、「テレビの買い替え」を提案してくる商戦ムードでしたね。
今回は、実に感じない。家電量販店に行ってもテレビブースは意気消沈です。
肝心のテレビCMはどうかというと、さほど流れていない。というよりもほぼやってないのではないか。
それどころか、米ディスプレイサーチの予測では、2012年のテレビ出荷台数は、前年の半分近くという見通しです。
今やすっかり日陰者です。

多くの家庭でテレビを見ない時間帯が増えているようです。
では家族が居間にいる時、何をやっているのでしょうか。
どうやら、パソコンや携帯電話で動画を見ているようです。

テレビ離れとなると家族の団らんにも影響が出てくるのです。
家庭内でも核化が進んでいくということになると、ますますテレビのニーズは下がりそうです。
生活スタイルも大きく変わりました、家庭内では共働きが「普通」になってしまい、
家族が揃うのは遅い時間帯になってしまうのでしょう。
そこから夕飯だのお風呂だのと寝る準備をすると、テレビをみんなでのんびり見るという時間はなさそうです。
だから手軽に使える携帯電話などが往行しているのでしょうか。

真新しいものを出せということではありませんが、一つの家電に伴う家族の姿も消えてしまうことは、少しさびしく感じます。
テレビ業界の会社様には、日本の家族らしさを守るという意味でも頑張って欲しいと思います。

生活スタイルが様変わりしている現代に求められるモノは、それに順応できる代物なのでしょうか。
それにより生み出すモノもあると思いますが、その影響でなくすモノも多分にあると思います。
本質を外してしまうというのは、どうも違うと思います。
不変で大切なモノ、我々を取り巻く環境は、そういったモノで成り立っているのだと感じます。
いつの時代にも通用するような、幹を持ち、枝葉で順応していけるようにしようと考えます。
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