考え方の相違の受け止め方

2011-08-25
「見方の違いによる争いは避けなければいけないが、意識の違いによる争いは
避けられない。意識の高い方は低い方を攻撃しないが。」という言葉を聞いたことがある。

平たく言い換えると、「缶コーヒーを真上から見て、『円だ!』という人と、
真横から見て『四角だ!』という人が喧嘩するのは、無意味なので避けなければいけない。
しかし、多くの体験を経て経験則から話す大人と経験の浅い子供に見解の相違が
起こるのは避けられない。大人は子供を本気で攻める訳ではない余裕を持っている・・・」というところだろうか。

何故、上記を思い出したかというと、職場の新入社員と意見の相違が起こったからだ。
言葉の後半を思い出し、「自分の方が大人なのだから」と優越感を持って納得し説得を
していた。しかし、この姿勢に違和感を覚えた。謙虚さが欠けている気がした。

後輩が意見をしてきたとき、言い方はさておき、言っている内容はもっともだった。
「君の考え方にも思い込みがあるんじゃないか……」と思わず言い返したくなったが、
私の考え方の偏りを指摘してくれた内容自体は、正しかった。

相手の至らなさや粗(あら)に着目しても意味がない。それは、相手の問題であり、
自分は、自分の修正すべきことに集中することが大切だと思った。

自分の気付かないところで、様々なところで後輩たちに理知的に、表現をおしつけて
嫌な思いをさせていたに違いない。振り返れば、多々あっただろう。

私は、どこかで、「相手が悪く、自分が正しい」と思っていた。それが思い上がりであり、勘違いなのだと思う。「自分『も』悪い」だけでなく、「自分『が』悪い」というところに立ったとき、問題が解決するのだと思った。

人間関係でうまくいかなかったら、相手のいたらなさを責めるのでなく、自分の未熟さのみを顧みる。
思い込みや考え方の違いを指摘されたら感謝する。
書くだけで難しそうな気がするが、あえてルール化を宣言したい。
実践し続けたら、成長するのかも知れない。
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自分の中の感情と理性

2011-08-23
自分にとって都合の悪いことが起こったとき、また、それを対処する必要がある時、
「面倒くさいなぁ」と感じる時がある。
しかしながら、理性では、「それでもやらなければいけない」と思うので、
人は行動するし、改善をするものである。

もし、仮に感情のままに行動し、「面倒くさいし、いいやぁ」とすると、
現実的に不都合が生じてしまう。

また、真面目に「面倒くさいなどと感じてはいけないんだ!」と、
自分を奮起し、感情を抑えこむと、窮屈な気持ちになることとなる。

こういう場合に、私は「感情では面倒くさいと感じていることを踏まえて
現実には、行動しないといけないな」と、感情と理性を明確に区別し、
割り切って行動するようにしている。

感情と理性を明確に分けて考えることで、感情に飲み込まれなくて済むし、
窮屈な思いにもならなくて済む。⇒健全な思いで問題に取り組める。

結局、他人に迷惑がかかるような場合は理性的に行動し、
自分にも誰にも迷惑がかからない場合は、感情のままに行動するもの
なのかもしれない。

ただ、自己認識の下で理性的であれ、感情的であれ、行動することで、
自分自身、納得感のある行動がとれるのではないだろうか?
これからも、色んな局面に遭遇すると思うが、感情の理解とそのコントロール
それに基づいた行動を実践していきたいものだと思った。
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ぼけーっとする効用

2011-08-23
ぼけーっとすることは、現代社会では、そんなに評価されていないように思う。
しかし、ぼけーっとすることは無駄なのだろうか。害悪なのだろうか。
将棋の羽生名人や、ワタミの渡邉会長などは、意識的にぼけーっとする時間を
確保しているというようなことを聞いた。

「意識的にぼけーっとする時間を確保する」など、どれだけやったことがあるだろう?
靴や鞄も、毎日使うよりも、時々休ませる方が、長持ちするという。
人間の精神や肉体も同じではないだろうか。
特に精神が仕事で張り詰めたときや、集中が長時間続いたときは、
バランスを取るために、ぼけーっとすることが必要なのかもしれない。

だから、将棋の棋士や経営者など、極度に集中して考える職業人は、
精神のメンテナンスとして、意識的にぼけーっとする時間を確保しているのだろう。

私も休みの日などに、静かな公園や森林などのマイナスイオンを感じられる場所へ
出向きぼけーっとすることにしている。

忙しいときほど、ぼけーっとする時間を意識的に確保するようにしている。
長い時間を確保できないときは、短時間でも「濃く」ぼけーっとしている。
精神を長持ちさせる為には、そんな工夫が必要なのかもしれない。

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ストップウォッチをつかう

2011-08-11
「時は金なり」とベンジャミン・フランクリンは言ったが、時間の価値はそんなものでは済まされないのであって、
「時は命なり」が正確なところだ、というのが、友人と私の共通の意見だ。

ところがつい時間が無限にあるかのように錯覚してしまい、時間を無駄に使ってしまう。
結果として、やろうと思っていたのにやらないことが、細かいことと大きいことの双方でたまっていく。
このままでは何もできない人生、死ぬ前に後悔する人生を送るのではないかと恐れていた。

そんな私に道を切り拓いてくれた道具がある。

ストップウォッチだ。

私は仕事で、英語の資格試験TOEICをお教えすることがあるが、この問題は事実上情報処理試験のため、
普通に解いてもらうと、ほとんどの生徒さんが時間内に解き終わらない。

そこで活躍するのがストップウォッチだ。

時間を切られることで、生徒さんは時間を意識し始める。最初解き終わらなかった問題が、
次第に解き終わるようになっていく。

実際、『声に出して読みたい日本語』の齋藤孝さんはこう言っている。
「教師の中には時間が無限にあるように考えている人がいる。たとえば授業でストップウォッチを遣う教師がいかに少ないことか。この作業は20秒で、次の発表は15秒以内で、と区切って授業を進めれば、
同じ1時間でも密度が濃くなるし、生徒にも緊張感が生まれる。教師自身がまず時間の管理者となることです。」
(「週刊ダイヤモンド」2011年6月18日号、p.52)

私も、家でする作業のいろんなことにタイマーを取り入れてみると、断然はかどるようになり、
小気味良い感覚を楽しんでいる。この原稿もタイマーを使って書いている。
時間を形として外に表したツールであるストップウォッチで、時間を無駄なく活用することも時には、
意識したいものである。
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古典と現代のバランスを取ること

2011-08-10
「人生は短いから古典だけを読むべきだ」ということが岩波文庫のどこかに書いてあるそうだ。
なんとも極端な意見に思えるが、実は一理あるように思う。
数十年や数百年や数千年という時を経て生き残った古典は、本物であるということが実証されており、
皆に評価されたものだ。本に限らず、建築や工芸品などの芸術や、例えば茶道についても同じことが言えるだろう。

現代のものは、そういう時の試練を経ていない。現在、書店に並んでいる無数の本や、
たくさんの芸能人の中で、いくつ百年後に記録や記憶に生き残り、親しまれているだろうか?
そういうことを考えると、古くからあるものの方が、確実で、安心だと思われる。
本当かどうかをいちいち吟味したり、取捨選択する必要がない。目利きがきかなくても、
時間対効率の高いものを選択できる。

しかしながら、古典というのはエッセンスや髄が詰まっているものであり、いつの時代も求められるものを教えてくれるものではあるが、「今、現在、この世相で」何が求められているのかを教えてくれるものではない。

例えば、今、ドラッカーがブームだ。本格的に学びたい人は原著を読めばよいが、
「今、ドラッカーがどういうふうに受け入れられているのか」を知るためには、
特集本やテレビ番組の方が良かったりする。世相を読み解くには、例えば特集本などある程度浅いと言われているものの方が良い、と言った人がいて、なるほどと思わされた。
古典を摂取する時間と最新のものを取り入れる時間のバランスを取ることをルール化し、
最近は、古典を読んだら、現代的に適用するよう心がけるよう意識している。

能を大成させた世阿弥による『風姿花伝』には、こんなことが書かれている。
どんな下手な役者であっても、すばらしいことがあると見たなら、上手であってもこれを学ぶべきである。
……もしも下手の長所を目の当たりにしても、自分より下手な役者の芸を似せまいと思ういさかいの心があったならば、その心に縛られて、自分の欠点をも、きっと知ることはあるまい。(風姿花伝第三 問答条々より)

能の演者でなく、何にでも当てはまることではないだろうか。これなら、今日からでも使える。古典を読んだら、「良い話だったなあ」で終わらすのではなく、日常の中で活かすこととしたい。
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「脱」悪循環

2011-08-04
風邪を引いた。突然体調が悪くなり、いつもより早めに会社を後にした。
帰宅後、熱を計ってみると38度。薬を飲みそのまま寝たのだが、夜中、40度をマークすることとなる。

21世紀になって初となる40度台の高熱を出し完全にダウン。翌日の昼間になっても一向に具合が良くなる気配がない。
渋々、病院へ行く事を決意。2時間の点滴や各種検査を終え、やっと帰宅。点滴効果も甲斐なく、日曜日も改善の様子もない。結局、週明けの月曜日まで高熱、頭痛、腹痛、関節痛に悩まされることになり病欠となった。

問題は自分の体調不良だけではなく、業務の停滞。アポイントのリスケ。休み明けの対応業務等々、お客様や同僚に迷惑を掛けただけではなく、本来ならば無い業務が増える結果となった。

今回の出来事から確実に学んだことがある。体調管理は仕事の一部であるということだ。
今後は自身の健康管理を維持する為、以下の項目を徹底することをルール化とする。

1. 睡眠時間の確保(6時間以上/1日)
2. 定期的なジム通い
3. バランスの取れた食生活
4. 自分はまだまだ若いと思っている勘違いの矯正

日々の仕事に追われ、時間が作りにくい現状ではあるが、不健康は更なる悪循環に繋がるので、先ずは、時間の確保から始めてみようと思う。

私に風邪を移した可能性の高いA氏はまだ高熱を出していないようだ。
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人は変わることが出来る生物なのか?

2011-08-02
「人は変わることが出来るのか?」
私が個人的に考えた末の結論は、「YES & NO」。

まず前提として、自分が「変わりたい」と思っている場合の方が変えることが出来る確率は高くなる。
例えば、「ダイエット。」「痩せて違う自分になってアイツを見返してやる!」というある意味での執念と硬い意思は、変化を生む。
しかし、「本当のあなた」という意味では見かけは変わっても、そもそもの優しいとか、嫉妬深いとか、そういった中身は変わっていないこともある。

根本を変えることは非常に難しいことだと思う。「根ざされたモノ」であり、そもそも常に意識して生活していないため、良くも悪くも習慣化されたことなのだ。
生まれてからこれまで特に社会に出てからは、異なる価値観だらけの周囲の影響を受け、
生き延びるために揉まれて踏まれて形成されて来た考えや生き様をある意味一旦、
自己否定しなければならない為、ある程度の年齢を超えると非常に改めるのは難しくなる。

しかし、自分自身の価値観や観念を「間違っているかもしれない」と考えることが出来、昨日よりも今日、
今日よりも明日の自分を見ることが出来る人は、「只者ではない人」になっている事が多いように思う。

言えることは同じ位置に居続け、周囲や社会の波が過ぎ去って行くのをじっと待つのではなく、自分と向き合う勇気ともっと魅力的になりたいという思い、そしてチャレンジ出来る行動力が重要であるということ。
その結果こそが「成長である」ということ。

結論として、私自身を根本的には変えることは出来ないが、それでも今のありのままの自分を受け止め、
変えてみることに前を向いて行動出来るかというのが最も大切な点であり、そこに「意識の変化」を生むことは
出来ると思う。
その結果として「変わることが出来る」のではないだろうか?
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