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新たなるスタート

2015-04-20
「パパのお仕事って何屋さん?」
眉間にシワを寄せながらネクタイを何度か締め直している私に幼稚園の制服に着替え終わった娘が突然聞いてくる。

社名を言えば誰もが知っているであろう企業だが、相手が子供だけにこう言った。

「ん~◯◯屋さん」
目も合わせずにさらっと私。

「ふぅ~ん」
と顰めっ面の彼女。

だが、彼女の目を見ながら笑顔で言えない自分がいた。
この子が大きく育っているのもこの会社のお陰なのに。

何故だろう。

考えてみるとやはり誇りを持って仕事をしている人間とそうでない人間とでは内に秘めているものがまるで違う。
私は、当時、後者だったのかも知れない。仕事という労働契約に伴い、求められる数字の要求にも応えてきたし、実績も積んできた。
作り笑顔でお客様に接していたのかも知れない。ふと、車のバックミラーに映る顔を見た時、曇った表情の自分に照れ笑いしてしまった。
娘の目を見て笑顔で言えないのもそう言うところからくるのだろう。

本当は物心つく前から彼女に言いたかった。
「パパは◯◯の仕事してるんだぞ」って。
「すごいだろって」。

誇らしげに

でもそうは言えなかった。

世の中には自分のやりたい仕事が出来ている人はどれくらい存在するだろう。
以前聞いた話だと、その数は約4割だそうだ。
残りの6割はミスマッチと感じながら仕事をしている事になる。
もしその6割の中の何人かでもやりがいを感じる仕事が出来れば、仕事の質も上がり企業が元気になるのではないだろうか。

上記したシフトさせる仕事。
これこそが私の望んでいるフィールドである。
私は10年間、立ち続けたフィールドを後にする決意をした。

それから2ヶ月経ち、ついこの間娘がランドセルを背負ってこう言ってきた。
「パパってこれから何のお仕事するの?」って。

私は彼女の目を見てこう言った。

「お仕事の事で悩んでいる人のお手伝いをするんだよ」と。

ランドセルを背負った彼女は笑顔でこう言った。
「パパ、スゴイねっ」

「うん、ありがとう」
私も自然と笑顔になっていた。

そう。ついにこの春夢のフィールドに立つ事ができたのだ。
これからこのフィールドを縦横無尽に全力疾走してやろうと思う。
そして思い切りシュートを撃ってやろう。

彼女も小学校1年生、私もある意味1年生。
彼女の成長に遅れをとらないよう、私もこれから進化して行きたい。
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先が見えない時こそ堅実に

2015-04-13
学生の頃、映画やドラマを夢中になって観ていた時期がありました。
好きな事にいくらでも時間を注げる状況でしたし、何よりも劇中の人々の気持ちの動きや物語の展開に素直に引き込まれていた記憶があります。
今でも時折DVDを借りて観たりしますが、「これは面白い」と感じることは昔に比べて少ないような気がします。
年齢を重ねて私の感覚や好みが変わっただけかもしれませんが、
一つの要因としては、取ってつけたような展開や、とにかくクライマックスに向けて盛り上げようとする意図が強すぎてしまうため、途中で白けてしまう事が多いからだと思います。
要は、演出があまりにも過剰で表層的、短絡的なのでわざわざ時間を取って観るに値しない作品が多いと感じてしまうのです。

これは映画やドラマの話ではありますが、現実世界でも同じ事を感じる場面はあります。
例えば、消費者としてモノを買ったり、サービスを受けたりする際に思う事ですが、あまりにも短期的な消費活動を扇動するプロモーションや、時流に乗りすぎた製品を見ると、やはり食傷気味になり一歩ひいてしまいます。
マーケティングの凄さは認めますが、提供する側から「こういうの欲しかったですよね?」とあからさまに言われているようで、どうも食指が動かないのです。

強引な味付けやメリハリが敬遠されがちというのは、キャリアや転職についても言えるかもしれません。
個人のキャリアにせよ、企業の歴史にせよ、時間の流れの中に様々な登場人物の思いや決断が存在し、物語は初めて成立するのだと思います。
つまり、「過去~現在、そして未来」にしっかりとした流れや太い幹があるかどうかでその物語の良し悪しが決まる、という事なのだと思います。
良い物語をじっくりと作り上げてきた個人や企業には、派手さは無くとも、読み手や聞き手を引き込む魅力が存在しており、それは一朝一夕で出来上がるものではありません。
一方で、派手な展開や短絡的な利益のみを追求していると、そこに差別化された意志や人格を見出すことができず、当人の存在がとても薄いものになってしまうと思います。
結局、単に見せ場を作るためだけの歯車にしか過ぎず、目立ったり儲けたりしてしまえば何でもあり、という印象が強まってしまい、全体の物語はどうでもよくなるという状態に陥ってしまうのだと思います。
これでは長期的なキャリア形成や会社としての存続はままならず、非常に危険な「バブル」の状態であると表現できます。

過去のバブル経済の時代もそうであった様に、不安定で先が見えない社会においても、無理矢理メリハリをつけて派手に装飾することに走るのではなく、
これまでの時間軸の中で積み上げてきた意志や繋がりを大事にできている個人や企業でなければ、これから先にある希望的な未来を見出すことは出来ないと思います。
「全米が泣く」ほどの記録的ヒットにならなくとも、重厚で印象に残り、ずっと語り継がれる映画やドラマ作品がたくさん存在するのと同じなのではないでしょうか。
少なくとも、私たちはそのようなご登録者様や企業様へのご支援を大切にして行きたいと考えていますし、
何よりもコアがそのような存在でいられることを目指して、日々の物語を堅実に紡いでいきたいと考えています。

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新しい居場所

2015-04-07
2歳半の息子が保育園に入ることになり、入園式に出席した。
保育園の倍率が高い中で抽選を通過できたことは、
非常に幸運だったとしか言いようがない。

息子の通うことになる保育園の建物に入って、新鮮に感じたことの一つは、
靴箱やロッカー、机に息子の名前が書いてあることだった。
今は全快し、何の支障もなく毎日を送っているが、
息子はかつて長い間入院していた時期があり、
今まで自宅以外で息子の名札を見る場所といえば、病室だった。
そのため、今回他の場所で息子の名前を見たときは、一瞬時が止まったと感じる程驚いた。

また、保育園の先生方と話すと、心から歓迎してくださっているのが感じられた。
普段支えてくれている周囲の人達、具体的には家族や親族、職場の仲間や友人以外に、
息子の居場所が新しくできたのだと実感し、日頃から支えてくださった方々への感謝で、
胸に熱いものがこみ上げてきて止まらなかった。

入園式では、先生方がお祝いの言葉を話してくださり、年上の園児たちが歌を歌ってくれていた。
息子も、周囲が歓迎してくれている場の空気を本人なりに感じ、喜んでいるようだった。
ここが、彼の新しい居場所になる。

人は、必ず何かの国や地域、団体や組織に所属して生きていく。
居場所といえば、働く場所は、人にとって、家庭と並ぶ最たるものだ。
その働く場所を人様にご提案する弊社の仕事は責任が重いことを、
息子の入園式で園児の歌を聞きながら、改めて感じた。
職業や職場の選択が間違っていたとしたら、ご本人は言うまでもなく、
ご家族を始め周囲の方々にも多大な影響が及び、大きな犠牲を強いられることになる。
その責任の重さを考えると、改めて、気を引き締めて職務に臨まなければいけないと思った。
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「グローバル化」の解釈

2015-03-31
先日、ある総合商社OBの方と話をする機会があった。
世界を飛び回り、ビジネスをされてこられた方の言う事は面白く、話す内容が豊かである。

話の途中に、「英語は出来ますか?」という質問を頂き、私は「いいえ」と答えた、
さらに突っ込まれて「何で出来ないのですか?」と聞かれ、私は「苦手な上に勉強していないので」と少し笑いながら回答した。
すると今度は「日本人は何で英語が出来ないのか?」と意見を求められた。
それに対して、「日本語を勉強しているからではないですか?」と質問で返した。
少し興味を持って頂いたようで、話が盛り上がった。
私自身の考えは、日本人の英語習得人口率が他国より低いのは「日本が優秀だから」と考えている。
植民地化もされず、他国の文化の真似をすることもなく、日本独自のカラーを発色し、在り続けてきた。
日本人は英語よりも何よりも守るべき「日本語と日本文化」があるからこそ、英語を後回しにしてきたと考えている。

昨今のグローバルというものに関して、少し違和感を覚えているのは自分だけではないであろう。
最近では、グローバル化に影響され、英語のレベルを日本全体で高めようという機運も高まっており、
小学校(幼稚園からも)から英語授業が平準化されるほどになっている。

以前から思っている事なのだが、グローバル化=英語力という認識は、誰がどう解釈したものなのか。
グローバルレベルで仕事をする上では必要不可欠なツールなのかもしれないが、このツールを使えることだけで、
グローバルレベルに通用する人物になり得るのであろうか。
残念ながらそうは思わない。
ツールが使えるのはあくまで前提であり、日本語だけのところを日本語と英語に置き換わっただけである。

では何をもってグローバルといえるのか。
自分なりの見解と受け売りで申し上げるのであれば、洞察力・俯瞰力が挙げられる。
語学もしかりだが、語学の背景にある文化を知らない方が非常に多い。
文化を知らずに浮ついた語学だけを使っているのであれば、それは本当の意味での語学をマスターしていないと感じる。
留学する方も多い昨今、留学経験者や留学希望者に「目的はなに?」と聞いてみたところ、
やはり回答は曖昧であり、挙句の果てには「英語を勉強」という回答が最も多い。
前述の通り、時代背景や文化を知らずして表層的な語学だけを学ぶのであれば、日本にいながらでも十分勉強できるレベルである。
残念ながら、その様な意識でいった留学は時間とお金の無駄である。旅行の延長でしかない。
そういうと「海外で自分も苦労した」という反論が聞こえてきそうだが、それはそうだろう。
日本語が通じない非日常に身を置くことを「英語を習得する」という極めて弱い動機で行っているのであれば、
苦労も一際大きいだろう。

論点を翻すと、この国の教育カリキュラムは優秀である。
ただ、残念ながら、親や大人が教育の意図を理解しておらず、表面的に勉強を強いる環境にある。
これでは勉強をする意味すらわからず、学習意欲が低減するだけである。

英語も然りである。
授業に英語を取り込むのは決して反対ではない。
では、英語を勉強する理由は?英語はいつ使うのか?何でいまやるのか?
答えは、世界がグローバルスタンダードになってきているから、英語が世界の共通言語だから。
この程度の動機づけでは、やはり真のグローバル化には程遠い。

先を見通す事も大事であり、グローバルという目線は全く反対ではない。
ただ、意識が先々へ行き過ぎていて、足元を固めていない組織や風土が多いように感じる。

私自身も、しっかりと足固めを行い、先のステップを踏んでいきたい。
そのためにも、しっかりと礎を築き、着実な変化を自身の課題にすることをルール化としていきます。
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選挙権と少年法

2015-03-05
先日、公職選挙法改正案によって選挙権を18歳以上に引き下げる法案が成立する見込みであるとニュースになっていました。
改正案では、飲食・喫煙などは20歳以上とする民法と、少年法の年齢にかい離がある為、合わせて議論すべきであると指摘されていました。
おりしも、その翌週に川崎市の中学生が17歳・18歳の少年たちに殺されるという残虐な事件が起こり、少年法の適用年齢の引き下げについてあちこちで議論が飛び交っています。

そもそも少年法の目的は「少年の健全な育成を期す」「非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行う」となっており、もともとは刑罰を科すことではなく、少年の更生なのです。

人間味のある法律だと思いますが、先に述べた川崎の少年刺殺事件や昨今の名大生事件等現代の残虐な事件を見たときに、果たして、この少年法が理想とする効果があるものなのだろうかと
疑問を持たずにはいられません。
一方、少年法に守られ本当に立ち直り、その後の人生を真っ当に歩んでいる若者も
多くいるに違いないと思うと、非常に難しい問題であると思います。

しかし、あくまで個人的な考えではありますが、取り戻すことが出来ない大切な命を奪うことは、
年齢に関係なく、罰せられるべきだと思います。そこに情状酌量の余地があるかどうかが議論になるべきで、
未成年だからということで守られることが前提なのはいかがなものかと思います。

「挨拶はしっかりすること」「自分が嫌なことは他人にしてはいけない」等は親から教えられて、
というか学校という集団生活の中で教わり、殺人はいけないことだと言うことも、
当たり前のように普通の人は善悪の分別が付きます。
しかし、普段の生活の中で、意外に「正しいこと」を見失ってしまっていることがあるのではないでしょうか。
例えば、朝の満員電車で目の前に妊婦さんが立っていた時、席を譲るべき瞬間ですが、つい寝たふりをしてしまったり、
社内で、後輩が間違った態度で顧客や上司に接していることに気づいても
「自分には関係がないから」とスルーしたり、etc…
損得勘定が「正しい」ということの「ものさし」になっていることが
少なくないように感じてなりません。

1つ1つは小さなことですが、一人ひとりのこの意識が、自分と他人の間に隔たりをつくり、
歪んだ人間関係を生み、そんな大人の世界を“リアル”と捉えて生きる子供たちがいる。
子どもは時代を映す鏡とよく言ったもので、見直すべきは少年法という法律よりも、
人としてのルールについてなのかもしれません。
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